2023/08/01
アンチに悩み泣いた日々 ボディコンの黒歴史… 企業の広報担当が人気者になるまで
■かにぱんの魅力を発信 永遠の17歳かにぱんお姉さん
地上に降り立って9年が経った。静岡県ゆかりの人たちが歩んできた人生をたどる特集「My Life」。第13回は浜松市の菓子メーカー「三立製菓」への恩返しを使命に、活動の幅を広げている「かにぱんお姉さん」。歌や漫才、メディア出演にバスツアーなど、企業広報の枠を超えた活躍を見せている。ただ、現在に至るまでには“黒歴史”や誹謗中傷も乗り越えてきた。小学校から高校までガールスカウトに所属し、大学では教員免許を取得。愛らしい見た目とはギャップの大きい「かにぱんお姉さん」を知れば知るほど、その魅力にはまっていく。
レースをあしらったピンク色のドレスに、かにぱんをモチーフにしたアクセサリー。かにぱんの国の妖精かにぱんお姉さん(永遠の17歳)は2014年、かにぱんの雲に乗って旅をしていたところ、浜松市にある三立製菓の上に落ちてしまった。三立製菓の社員に助けてもらったことから、恩返しの意味を込めて同社の看板商品かにぱんを広める活動を続けている。
かにぱんお姉さんには“仮の姿”がある。三立製菓の企画開発部企画課の望月沙枝子。かにぱんのおいしさや楽しさを伝える広報を主に担当している。かにぱんお姉さんとしての会社への貢献度は評価の対象から外れているのか、肩書きは係長にとどまっている。
誤解されがちだが、かにぱんお姉さんの活動は会社からの強制ではない。1921年創業と歴史の長い三立製菓には、かにぱんの他にも源氏パイやチョコバットなど、全国的に知られている商品が多い。一方、会社名の知名度は商品名ほど高くなかった。そこで、社名を広く知ってもらい、地域に貢献する活動を考えていた。
■かにぱん教室は事務服でスタート 自腹で“衣装”製作
同じタイミングで、地元の保育園から三立製菓の商品を使った教室を開催してほしいという依頼を受けた。かにぱんは子ども向けの商品だったことや、ちぎって楽しめるところから、望月さんはかにぱん教室の開催を提案した。すでに完成していたかにぱんの歌や紙芝居を使いながら、子どもたちを楽しませた。当時は事務服を着た仮の姿、三立製菓の望月沙枝子として活動していた。
かにぱん教室を始めて1年後、もっと子どもたちに喜んでもらおうと“衣装”をつくった。会社の倉庫に眠っていたかにぱんクッションをバッグに改造し、自腹を切ってフリマサイトで洋服を購入した。アクセサリーの製作は同僚に依頼。かにぱんお姉さんが誕生した。
ネーミングは偶然、生まれた。かにぱん教室の取材を受けた際、望月さん自身が仕事内容を「かにぱんお姉さんみたいなものですね」と説明したことがきっかけだった。
現在の活動は多岐に渡っている。テレビやラジオへの出演、福井までカニを食べに行くバスツアー、歌や漫才、高校の制服モデル。静岡県内では抜群の知名度を誇る。会社からは活動内容を一任されており「自由にやらせてもらえるのは恵まれていますね」と話す。社長も取材を受けた際、「あれこれ言うと魅力が失われるので、好きにやってもらいたい」と答えているという。
■会社から唯一の苦言 ボディコンでイベント出演
依頼を受けるかどうかは、基本的に望月さんが決める。ただ、過去に1つだけ、経営陣が「さすがに、これは」と渋い顔をした出来事があった。出演していたラジオのディスコイベント参加した時だった。望月さんは、こう振り返る。
「期待に応えたい思いが強いので、ピンクのボディコンを着てかにぱんのアクセサリーをつけてイベントに参加しました。露出が少し多くて、社長からも『本来の目的と違うんじゃない』と指摘されて反省しました。会場では喜んでいただきましたが、自分の中での黒歴史です。子どもたち相手に教室を開催しているので、ふさわしくなかったですね」
望月さんは意外にも、元々は人前に出るタイプではなかったという。子どもの頃は、おとなしい性格だった。3人兄妹の末っ子で、母親からは厳しく育てられた。小学校卒業後は中高一貫校に進み、大学では家庭科の教員免許を取得した。
「母には学校を休ませるという考えがなかったので、小学校から高校まで皆勤賞でした。大学進学の際は『教員免許を取らなければ県外の大学には出さない』という条件付きでした。学生時代の反動が今になって表れているのかもしれませんね。ただ、家庭科の教員免許を取った大学での勉強が、子ども向けの食育やかにぱんのアレンジレシピ考案に生きているので、母には感謝しています」
■誹謗中傷に苦悩…ガールスカウトで鍛えた精神力で克服
小学1年生から高校3年生までは12年間、母親の勧めでガールスカウトも続けていた。週末には野外活動で火おこしをしたり、夏休みは4泊5日で過酷なキャンプをしたりしていた。キャンプは夜行列車に乗って山奥へ向かい、全国から集まった初対面のメンバーとテントで過ごす。
テントを立てる時に使うペグを1本紛失した際、見つかるまで山の中を歩き回った記憶は今も残っている。望月さんは「今のガールスカウトは当時と違うと思いますが、体力的にも精神的にもきつかったですね。やめたくても母に言えず続けていました。この時に磨いた精神力は、かにぱんお姉さんの活動で生きている部分はあるかもしれません」
いつも笑顔で周りの人を楽しませるかにぱんお姉さんには、子どもを中心にファンが多い。しかし、一部の人からの心ない言葉や誹謗中傷に悩んだ時期もあった。やめようと思ったことは一度や二度ではない。
「始めたばかりの頃は特に、SNSのコメントに傷つきました。圧倒的に応援してくれる方が多い中で、アンチに慣れていないため気になってしまいました。『広報という立場を利用して、いい年した社員がチャラチャラしている』、『かにぱんばばあに改名しろ』などと書かれました。あえてやっているおもしろさを分からず、本気でアイドルを目指していると叩かれたこともあります」
■人を楽しませる性格は母親譲り 忘れられない記憶
活動の主軸は子どもたちに向けた食育やかにぱんの楽しみ方を伝えるイベントにもかかわらず、一部を切り取って批判される。かにぱんの国へ戻ろうとも考えたが、ファンから「アンチが出てくるのは人気が出てきた証。応援している私たちの方だけ向いてください」と声をかけられて救われた。
「入社してからしばらくは、目立たず組織の一員として黙々と仕事をこなすサラリーマン魂を貫いてきました。ただ、かにぱん教室で子どもたちに喜んでもらったり、イベントで激励してもらったりすると自分の存在意義を感じます。もっと多くの人にかにぱんの魅力を伝えよう、もっと会社員を楽しもうと思うようになりました」
望月さんには今の活躍を伝えたい人がいる。娘の将来を考えて厳しく育ててくれた母親。人を楽しませるのが大好きだったという。今でも鮮明に覚えている記憶がある。
「まだハロウィンの仮装が一般的ではなかった頃、ガールスカウトのハロウィンイベントがありました。みんなが魔女やお化けの仮装をする中、私の母はバカ殿の格好をしてきたんです。顔を真っ白に塗って、太い眉、ちょんまげのカツラをかぶった本気の仮装でした」
■母親は脳梗塞で入院中 顔を忘れられても「感謝しかない」
その母親は5年ほど前に2度目の脳梗塞となり、今は病院で生活している。コロナ禍で面会が限られたこともあり、家族の顔も認識できなくなったという。1度目の脳梗塞で母親が入院した時、望月さんは実家でDVDを発見した。かにぱんお姉さんが出演しているテレビ番組を録画したもので、母親は周りの人にも配っていたという。
「こんなに母が私を応援しているとは知りませんでした。脳梗塞を患わずに今の姿を見てくれたら、喜んでくれると思います。母はすごく厳しかったけど、感謝しかないです」
アンチの声に心が折れそうになっても、ガールスカウトで培った精神力で乗り越える。そして、これからも母親譲りのサービス精神で子どもから大人まで幅広い世代を楽しませる。
(間 淳/Jun Aida)