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2024/02/01

バスケットで「家族を楽にしたい一心」 ハングリー精神で実現させたプロの目標

現役引退後はバスケットスクールを開校している大澤さん

■静岡市出身・大澤歩さん 小学生時代は登校前に100本シュート

絶対にプロになる――。小学3年生の時に誓った目標は、ひと時もぶれなかった。静岡市出身でベルテックス静岡でもプレーした元プロバスケットボール選手の大澤歩さんは、今の時代では珍しいハングリー精神でプロになる目標を実現させた。いつも心の中心にあったのは、家族への感謝と恩返しの気持ちだった。【全3回の1回目】

 

大澤さんはバスケット人生の第2章をスタートしている。昨年の夏にプロ生活には幕を下ろし、現在は静岡市に本社を置くフジ物産の社員としてアスリートのセカンドキャリアをサポートしながら、自身が代表を務めるバスケット教室「A’z BASKETBALL SCHOOL」を運営している。小学生から高校生までを対象に、これまで培ってきた知識や技術を伝えている。

 

選手としてプレーした第1章のバスケット人生では信念を貫いた。サッカーのまち・清水に生まれた大澤さんは6人兄弟の末っ子。兄の影響で小学3年生の時にバスケットを始めた。周りはサッカーをしている子どもが大半だったが、迷わずにバスケットを選んだ。この時から、大澤さんの目標は明確だった。

 

「絶対プロになる」

 

小学生の時から誰よりも練習し、上手くなるために頭を使う意識を持っていた。自宅に付けてもらったバスケットゴールに毎朝100本シュートを入れてから登校するのが日課だった。

スクールでは初心者の子どもたちも指導

■「両親や兄・姉はほしい物を我慢」 家族に誓ったプロ入り

自宅にバスケットゴールと聞くと、裕福な家庭で育ったと感じるかもしれない。だが、6人の子どもを育てるのは経済的に楽ではない。大澤さんは「バスケのゴールは両親にお願いした一番高い買い物です」と話す。

 

自宅は借家で敷地が狭かったため、駐車場につけたゴールに向かって道路からシュートを打っていたという。この家庭環境こそが、大澤さんがプロを目指す理由だった。

 

「6人も子どもがいて生活は大変だったはずですが、何の不自由もなくバスケットができました。それは、自分のために両親も兄や姉もほしい物を我慢してたからです。プロになって家族を楽にさせたい一心でバスケットをしていました」

 

小学生の頃、大澤さんの存在感は抜けていた。静岡県選抜に入り、周囲からは「確実にプロになる」とみられていた。ただ、現状に満足せず、向上心を持ち続けた。兄をはじめとする年上と一緒に練習し、兄と1対1の勝負「1 on 1」で負けると悔し泣きしながらドリブルやシュートを繰り返した。友人と遊ぶ時間もつくっていたが、バスケットを最優先する生活はぶれなかった。

 

「他の人とはプロを目指す覚悟が違いました。中途半端に終われませんから」。

 

■中学3年生で父が他界 大学では選手層の厚さに苦戦

中学校でも県選抜に入り、その名は同世代で知られる存在となっていった。だが、大澤さんは「自分は決してエリートではなかったです」と振り返る。所属していたチームでは小学生でも中学生でも全国大会に出場できなかった。中学の県選抜では大会前の遠征期間に足を骨折して、試合に出られなかった。

 

静岡県内では知られていても、全国的には無名。県外のバスケット強豪校からは声がかからず、高校は静岡学園に進んだ。高校でもチームメートと全国の舞台に立つことはできなかった。ただ、プロを目指す決意を一層強くする出来事があった。大澤さんが中学3年生の時、父が他界した。

 

「プロになって恩返しするつもりが、できなくなってしまいました。それまで以上に母親が大変になるので、何が何でもプロになると思いは強くなりました」

 

大学は関東1部の専修大に進学した。全国から同年代のトップレベルの選手が集まる強豪チームの選手層は厚い。1年生の時はベンチにも入れず、2、3年生でもスタメンが遠かった。落ち込み、悩んだ時期もある。「競争に勝つには努力しかありません」。バスケットを始めた時と志は変わらない。プロになるため、人一倍努力した。

 

最終学年の4年生になると、ベンチスタートの中でも特に活躍する選手「シックスマン」やスタメンで出場できるようになった。小、中、高校同様に大学生でも主将を務め、プレー以外でもチームをけん引した。

ベルテックス静岡でプレーしていた頃の大澤さん(本人提供)

■家族のおかげでプロに 「これからも恩返し」

そして、大学卒業後は広島ライトニングでプロのキャリアをスタート。目標を達成した。苦しい時期でも努力を継続できたのは、母からの言葉も大きかった。

 

「母は『プロ選手は特別ではない、1人の人間』と言っていました。バスケットがなくなった時でも周りの人がついてくる人間になりなさいと、ずっと言われていました。その言葉を胸に刻んで、人として成長することを常に考えていました。プロを目指して努力する大切さ、努力する姿を見ている人がいると信じて練習を続けていました」

 

大学までバスケットを続ければ、当然ながらお金がかかる。学費や遠征費は金額が大きく、消耗品のバスケットシューズも決して安くない。「ここまでバスケットができたのは家族のおかげです」。大澤さんは当たり前のようにバスケットを続けられたことに感謝する。そして、こう続ける。

 

「まだ家族には恩を返しきれていないです。これからも恩返ししていきます」

 

(間 淳/Jun Aida

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