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2024/05/19

あの決断がなかったら…最大のピンチ乗り越えて国内シェア約50% 64年のロングセラー

藤枝市にあるケンミン食品の工場と近くに設置している自動販売機

■藤枝MYFCサポートするケンミン食品 ギネス記録の焼ビーフン

サッカーJ2藤枝MYFCのオフィシャルシルバーパートナーとしても知られるケンミン食品の主力商品「ケンミン焼ビーフン」は、発売から64年のロングセラーとなっている。「最も長く販売されている焼ビーフンブランド」としてギネス世界記録にも認定されているが、製造の継続が危ぶまれるピンチに陥った過去がある。あの時の決断がなければ、日本の食文化からビーフンが消えていたかもしれない。

 

藤枝市には静岡県内で唯一、ケンミン食品の自動販売機が

 

ケンミン食品の歴史は1950年に始まった。神戸市の工場でビーフンを製造し、地元の飲食店に販売していた。当時は生麺で賞味期限が短く、近くの店にしか届けられなかった。形はパスタのような長い棒状だったという。

 

ビーフンをより広く知ってもらうため、ケンミン食品はビーフンを乾燥させて保存が効くようにした。その後、形状を四角形や丸型に成形し、調理しやすい工夫を加えた。

 

現在のようにケンミン食品の焼ビーフンが親しまれるようになったのは、味を付けたアイデアが大きかった。ケンミン食品で広報とマーケティングを担当している田中国男さんが説明する。

 

「発売当初、ビーフンは日本人に馴染みの薄い食べ物でした。購入しても、どのように調理すれば良い分からなかったんです。そこで、味を付けて、肉や野菜と一緒に蒸し焼きにするだけで完成する商品にしました。誰でも簡単につくれるところが人気となって、一気に普及しました」

ビーフンの原料となるインディカ米

■原料のインディカ米を輸入できないピンチ 廃業する同業者も

ビーフンの発祥は、秦の始皇帝が中国統一を成し遂げた紀元前220年頃とされている。その後、台湾へ伝わった。日本の食卓に並び始めたのは第二次世界大戦後。東南アジア各国から引きあげた日本人が現地で親しんだビーフンの味を忘れられず、帰国後も食べるようになったと言われている。

 

調理の手間を極限まで減らしたケンミン焼ビーフンはファンを増やし、売上を伸ばしていった。しかし、1970年代に入ると問題に直面した。敗戦から復興していく中で、日本は米を輸入せず、自国で生産する方針に舵を切ったのだ。田中さんが語る。

 

「ビーフンの原料となる米が海外から入ってこなくなってきました。ケンミン食品は創業から米だけでつくるビーフンに誇りを持っていました。そのこだわりをあきらめざるを得ない状況に陥りました」

 

米には大きく分けて、日本で主に食べられている「ジャポニカ米」とタイ米に代表される長細い「インディカ米」の2種類がある。米をすり潰した米粉を原料とするビーフンには粘り気の少ないインディカ米が適しており、ジャポニカ米を麺状にするのは難しい。ビーフンの原料となるインディカ米を輸入できなくなった企業は次々と廃業に追い込まれた。ケンミン食品も窮地に立たされたという。

世界中で愛されているケンミン焼ビーフン

■タイに工場移設を決断 世界で年間1500万食以上販売

そこで、ケンミン食品は一大決心をする。製造工場をタイに移設したのだ。1987年に新しい工場が完成し、現地のタイ米を使ってビーフンを製造した。現在も米を輸入するハードルは高い。この時、タイに工場をつくる決断に踏み切っていなかったら。田中さんは「今のケンミン食品は間違いなくないです」と言い切る。

 

原料不足の問題を解決し、ケンミンの焼ビーフンは勢いを増した。タイの工場は今も現役でフル稼働。日本国内で販売される焼ビーフンとして50%近くのシェアを占める。海外にも展開しており、世界で年間1500万食以上販売されるまで広がった。

 

どんな企業にもピンチは訪れる。その窮地を乗り切った先に、他社がたどり着けない境地がある。

 

(間 淳/Jun Aida

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