2022/09/19
センバツ優勝後に人生を変える出会い 「甲子園史上最高の二塁手」が歩む児童福祉の道
■元常葉菊川の町田友潤さん 浜松市で4つの児童福祉事業所を経営
最後の甲子園出場から14年が経っても、野球ファンの記憶にはっきりと刻まれている選手がいる。その1人が、「甲子園史上最高の二塁手」だ。それぞれが歩んできた人生をたどる特集「My Life」。第4回は、常葉菊川(現:常葉大菊川)高校で春夏合わせて4度聖地でプレーした町田友潤さん。23歳でグラブを置き、第2の人生に選んだのは児童福祉。現在は、静岡県浜松市で4つの事業所を経営している。センバツ優勝後のある親子との出会いが人生の転機だった。
野球中心の生活から離れて9年が経つ。だが、「常葉菊川の町田友潤」の名前は人々の記憶に残っている。甲子園に刻んだ足跡は、それだけ衝撃的だった。2年生だった2007年のセンバツ高校野球大会で、常葉菊川として初の甲子園優勝に貢献。そこから、準優勝した2008年の全国高校野球選手権まで、4季連続で聖地に立った。
誰もが安打だと思った打球に追いつき、難しいバウンドを事も無げにグラブに収める。町田さんの守備は観客を魅了し、「甲子園史上最高の二塁手」と称賛された。その後、社会人野球の名門・ヤマハで23歳までプレーし、グラブを置いた。社会人野球の選手は一般的に、現役を引退しても企業に残って社業に専念する。町田さんも本社の経理で他の社員と同じように勤務した。だが、半年ほどで退社を決めた。
「社会人野球のレベルの高さを感じましたし、最後の1年くらいは持病の腰痛の影響もあって全体練習さえできない状況でした。納得して引退しました。ただ、ヤマハには野球で貢献しようと思って入ったので、引退と同時に『自分は何のためにヤマハに残るのか』と感じました」
■「いつかは」と秘めていた思いを形に 知的障害の息子を持つ母親からの言葉
これまで生活の中心だった野球を終えた町田さんには、心に秘めていた思いが沸き上がってきた。「あの親子に出会ってから『いつかは』と、ずっと思っていました。このタイミングしかないと考えました」。簿記の知識が必要な経理の仕事では会社の戦力になれないと感じていた。当時23歳。経理も営業も一から学ぶには十分な時間があったが、町田さんは第2の人生に別の道を選んだ。
あの親子――町田さんには忘れられない出会いがある。2007年にセンバツで優勝して、地元に戻ってきた時だった。知的障害のある男の子を連れた母親に声をかけられた。「町田さんのプレーに励まされました。ありがとうございました」。町田さんのプレーがテレビ画面を通じて、面識のない親子に力を与えていた。
「甲子園に出場して、それまで以上に周囲のサポートの大きさを感じていました。こちらが周りの人に感謝する立場なのに、励まされたと言ってもらえて本当にうれしかったです。いつか、子どもたちや親御さんに恩返ししようと思っていました」
町田さんは「甲子園最高の二塁手」と呼ばれても、プロを明確に意識したことはなかった。常葉菊川の先輩や甲子園で目にした同世代のプレーを見て、「仮にプロに入っても活躍できるレベルではない」と自己評価していた。野球に区切りをつけて、湧き上がってきた「恩返し」の気持ち。ヤマハを退社して、児童福祉の道に進むと決めた。【後編に続く】
(間 淳/Jun Aida)